「おんな城主 直虎」の父 井伊直盛 最期の地 桶狭間古戦場伝説地

「おんな城主 直虎」の父 井伊直盛 最期の地 桶狭間古戦場伝説地

「おんな城主 直虎」で有名な、直虎の父「井伊直盛」は、桶狭間の戦いに今川軍として出陣し、桶狭間で戦死したと伝えられています。つまり井伊直盛は、豊明の地で最期を迎えたのです。

井伊家とは

井伊家は、遠江井伊谷(現:静岡県浜松市北区引佐町)の城主で、龍潭寺を菩提寺にしています。その歴史は古く1010年に井伊家が誕生したとされていますが、今川義元の父、今川氏親が侵攻し、何度も戦った後、義元の生まれる3 年前の永正10 年(1513年)に今川家の支配下におかれます。

井伊直盛をめぐる井伊氏 関係図

井伊直盛とは

大永6 年(1526年)に生まれたとされ、今川家の支配下となった時代の井伊家城主。新野左馬助親矩の妹との間に、一人娘である直虎が誕生。その後、 直盛は永禄3 年(1560年)に起こった桶狭間の戦いに出陣し、戦死しています。

桶狭間の戦い 井伊直盛の活躍と敗戦

5月19日朝、今川軍本隊5 千は、沓掛城から大高城へ入るため、今川家の支配下におかれていた井伊直盛と、松井宗信を先頭に進軍しました(『松井家譜』)。

昼頃、先頭が桶狭間村にさしかかった時、織田軍先方の佐々隊が突然襲い掛かりました。現在の桶狭間古戦場伝説地(豊明市)を通過中だった義元はそこで輿を降り、先頭部隊を桶狭間村へ送り出しました。その部隊の一つ、井伊隊の大将が井伊直盛です。佐々隊は井伊隊と松井隊に討ち取られ、直盛と松井宗信は佐々隊の首を持って本陣へ届けました。その時の様子を『信長公記』では、「義元のほこ先(先頭の隊)には天魔鬼神(信長)もたまるべからず、心地は良しとよろこんで、ゆるゆるとして謡を歌い、陣を据えた」と記しています。つまり、義元は勝利を喜び、本陣を据えて酒宴を始め、謡を歌ったのです。

午後2時頃、油断している義元のもとに、織田軍が突然襲い掛かり、今川軍は総崩れとなってしまいます。義元は東に逃げますが、織田軍の服部小平太と毛利新助により討ち取られてしまいます。

直盛は戦っていましたが負傷してしまい、遠江まで帰れないことを悟り、切腹したという説がありますが、その詳細は定かではありません。

桶狭間今川義元血戦図

おんな城主 直虎の誕生

直盛亡き後、井伊家を継いだのは、養子の直親でしたが、松平元康(徳川家康)との内通を今川氏真に疑われ、永禄5 年に朝比奈泰朝に殺されてしまいます。その後、井伊家は、出家していた直盛の娘、次郎法師を領主とし、その名を「直虎」としました。ここにおんな城主直虎が誕生したのです。

武田信玄の侵攻など、さまざまな危機を乗り越えた直虎は、直親の息子「虎松」を徳川家に仕えさせ、井伊家を復活させる画策を行いました。その策が功を奏し、虎松は家康の もとで功績をあげ、井伊直政と名乗り、徳川四天王の一人となり、彦根城主として活躍します。

井伊直盛と桶狭間の戦いについて、もっと詳しく知りたい方は、とよあけ桶狭間ガイドボランティア

※桶狭間の戦いについては、諸説あります。
※掲載の内容は、とよあけ桶狭間ガイドボランティアの皆様によるものです。

「桶狭間の戦い」